「『詩とコーヒー』試論への断章、その後」 小山伸二

「詩とコーヒー」試論への断章、その後

<ソクラテスのカフェ Un café pour Socrate>でのおしゃべりに似せて−−−

 小山伸二

 

 

 

1 哲学とカフェ

  1992年のある日曜日。

 パリのとあるカフェで。無名のソクラテスたちが、切実な問いかけを提供し、それに対して誰かが意見を言い、誰かが反論した。

哲学的な議論の場を創出した。

 科学技術の発達、高度資本主義経済の進行、共産圏の崩壊、自由主義経済圏の全面的勝利、民族問題、国際的にも地域的にも偏在する富、圧倒的な非対称の経済状況が二十世紀末にある飽和点を示しているとき、必要とされるものとしての「哲学」という遠くギリシア時代から伝承されてきた学問に、ひとが期待し、渇望するものがあったのだろう。

そうした哲学する場、不特定の複数者が議論する場が、コーヒーを媒介にして成立するカフェを選んだのだ。二十世紀の終わりに。

哲学者マルク・ソーテは、その哲学の場の提案者であり、議論のナビゲーターであり、コーディネーターだった。議題はその都度、街角のソクラテスたちの合議によって決められた。

街角のソクラテスたちが自主的に選択したテーマは、自殺、戦争、安楽死、宗教、歴史などであった。いわば人類が二十世紀末に抱え込んだ数々の問題を街角のソクラテスたちは誠実な問いかけとして、カフェという場に持ち込んだのである。これはまさに、カフェが私的空間でも公的空間でもない、まさにそのどちらにも属さない多義的に開かれた空間だったからこそ、成立した運動だったのかもしれない、と後にこの運動を知ることになったぼくは、二十一世紀の今日に思う。

 今日におけるこの「哲学カフェ」の重要性は、哲学の可能性の問題であると同時に、いっぽうで、カフェという開かれた空間のもつ文化的な生存理由を問いかける切実な実践を示唆しているに違いない。マルク・ソーテは1998年3月、奇しくも、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの旗手であった映画監督フランソワ・トリュフォーと同じ享年52歳という若さでこの世を去ってしまった。しかしながら、『ソクラテスのカフェ』(紀伊國屋書店)の解題によると、いまも彼の遺志を継いだ「哲学カフェ」がフランス各地に、そしてアメリカ合衆国を含め世界で存続しているようだ。

 さらには、「カフェ」という名称が拡大し、哲学し、議論する場がいわゆる営業している一般のカフェではなく、集会場や学校の一室での集会も、「哲学カフェ」と呼ばれるようになった。それは、営業形態としての「カフェ」という名称から、不特定の人が寄り合い、議論する場に「カフェ」という名称が与えられたということであり、それは正当なことだと思える。

 

さて、本来、論文発表の場であるべき「コーヒー文化研究」の誌面で、いわば唐突に「ひとり哲学カフェ」のようにして、「コーヒー」に根源的な触発をうけた議論、おしゃべりを展開したいとたくらんでいるのだが、無論、その議論、おしゃべりに結末はなく、完結した美しい円環をなす論述も、もとより用意がない。むしろ、ソーテの「哲学カフェ」を範にして、結論のない、開いたままの問いをたてかけ、悩み、考えることにひとときの時間をさきたい。

二十一世紀の「ひとりソクラテスのカフェ」を、ひとりぼっちながら、この新しい世紀の現実の苦さに負けないくらいの苦いコーヒーをかたわらにおいて、では始めてみよう。

 

 

2 詩とコーヒー、その後 

 たとえば、フランス映画には街角のカフェが日常の一シーンとしてよく登場する。トリュフォーの代表作「突然炎のごとく(Jules et Jim)」に出てくるカフェのシーンでも、ある店に行くと必ず誰かがいて、そこでは、文学、芸術の話や仲間内の消息が聞ける、という存在としてのカフェの風景があった。いまの電子的なネットワークの砂嵐のなかのメーリングリストや電子掲示板やらが、まだまだたどり着けない人間くさい嫉妬と嫌悪と自己顕示の渦巻く社交がそこにはあった(いや、すでに、電子の砂嵐のほうがコミュニケーションの先の先の異次元に行っているという見立ても、可能かもしれないけれども)。

そして、カフェでは、真剣に朗読する詩人たちの横で、これ以上はないというお行儀の悪さで、たとえばアルチュール・ランボーみたいな詩人が、冷ややかに、遠くアフリカの砂漠でも幻視するような眼差しで、他人事を装って、コーヒーを啜っていたかもしれない。

 

唐突なことながら、カフェには詩が似合う。あるいは詩はカフェに似合う。

なぜならば、詩にもコーヒーやカフェと同じように光と影があるからだ。

詩は、とくに世界的に言っても定型から逸脱した自由詩、現代詩は、ジャンル的には、小説、エッセイ、評論などの文芸と比べても、圧倒的な孤立を強いられている。

もちろん、ポピュラー・ミュージックで唄われる歌も、ひろく「詩」だと考えれば、コーヒーが現代資本主義経済社会に欠かせない重要商品であると同じくらいに、「詩」も人類に欠かせないものとしてあるのは間違いないのだが。さらにいえば、商品化された楽曲だけではなく、街角にあふれるカラオケ・ルームや、ストリート・ミュージシャンの歌声のなかにさえ、現代に生きるひとりひとりの本来的な意味においての「詩」が宿っているのは、紛れもないことなのだと、言い立ててもいい。

詩は、人を拒絶し、と同時に人を求める。

あるときは、告発し、呪詛し、警告し、威嚇もする厳しい詩。と同時に甘え、許し、慰撫し、抱擁する詩。かつて、詩は人を鼓舞して戦争に、死地に駆り立て、と同時に失われた命を、深く鎮魂もした。権力の側にたやすく寄り添い、いっぽうで、弱者の側からの徹底的な抵抗に参加し、否を言い立てもする。

戦時にも、平時にも、詩は似合う。そして、社交的でありながら、と同時に圧倒的な孤独の井戸の中に立て籠もることもあるだろう。

 

 カフェには人が集う。

しかし同じように、カフェのなかの孤独のテーブルをも、カフェは受け入れる。そんなことをわめきながら、ふとテーブルの上をみると、だれかに置き忘れられた詩集が一冊、ぽつんと置かれているにちがいない。

たとえばそれは、小池昌代の詩集、『雨男、山男、豆をひく男』(新潮社)。

この詩集のなかの一篇、「豆をひく男」をそっと口にだしてみよう。

「哲学カフェ」からはほど遠い、街角の喫茶店での社交の場が失われて久しい、喫茶店そのものも、バブル経済以降、雪崩をうって崩壊したに違いない現在の日本という国の、孤独な男の朝のコーヒーの風景である。それは、映画のなかのパリのカフェよりも、きっとぼくたちにはお似合いの風景に違いない。なぜならば、この孤独な男の朝にこそ、ぼくたちはこの新しい世紀のコーヒーの可能性のかけらをひろい集めることができるのだから。

 とてもながい詩だが、ぜひとも全篇を引用させてください。

 

   豆をひく男

 

   手動のコーヒーミルで

   がりがりとコーヒー豆をひくとき

   男はいつも幸福になるのだった

   それは男自身が

   気がつかぬほどの微量の幸福であり

   手ではらえばあとかたもなくなってしまう

   こぼれたひきかすのようなものだったが

   この感情をどう名づけてよいか

   男自身にはわからなかった

   長い年月

   男は

   自分が幸福であるとは

   ついに一度もかんがえたことはなかったし

   そもそも

   不幸とか幸福という言葉は

   じぶんがじぶんじしんに使う言葉ではなく

   常に

   他人が使う言葉であると

   かんがえてきた

   そしてこの朝のささやかな仕事が

   自分に与えるささやかなものを

   幸福などと呼んだことは一度もなかったし

   ましてや

   自分をささえる小さな力であることに

   気付きようもなかった

 

   コーヒーを飲んだあと

   男は路上の仕事に出かけるのだ

   看板を持ち

   一日中、裏道の中央に立ち続ける仕事

   看板の種類にはいろいろあって

   大人のおもちゃ、極上新製品あり、このウラ

   とか

   CDショップ新規開店、一千枚大放出

   などと書かれている

   同じ場所・同じ位置に立ち続けること

   それは簡単なようでいて難しい修行だった

   生きている人間にはそれができない

   彼らは始終、移動している

   なぜ、一つの場所にとどまれないのか

   なぜ、石のように在ることができないのか

   男は板の棒を持って立っていると

   いつも自分が棒に持たれているような気持ちになったものだ

   「生きている棒」

   そう自分につぶやくと

   眼の奥が次第にどんよりとしてくるのだった

   そんなとき、男はすでに

   モノの一部に成り始めているのかもしれない

 

   いつか勤務帰りの深夜

   男は

   駐車場の片隅で

   黒い荷物が突然動き出したことに

   驚いたことがあった

   浮浪者の女だった

   そのとき

   一瞬でも、人をモノとして感じた自分に

   はじめて衝撃を受けたのだったが

   いまはその自分が

   容赦もなく物自体になりかけている

 

   しかし

   きょう、始まりのとき

   男はいまだ全体である

   一日は

   コーヒーを飲まなければ始まらないのだから

   だから、こうして豆をひくことは

   男の生の「栓」を開けることなのだった

   男は

   いつからかそんなふうに感じている自分に少し驚く

   豆をひき、コーヒーをつくる時間など、五分くらいのものだが

   その五分が

   自分にもたらす、ある働き

   その五分に

   自分が傾ける、ある激しさ

   そして

   この作業を

   小さな儀式のように愛し

   誰にもじゃまされたくないといつからか思った

   もっとも、じゃまをする人間など、ひとりもいなかった

   男はいつも一人だったのだ

 

   がりがりと

   最初は重かったてごたえが

   やがてあるとき

   不意に軽くなる

   この軽さは

   いつも突然もたらされる軽さである

 

    まるで死のように

    死のように

 

   そのとき、ハンドルは

   からからと

   骨のように空疎な音をたてて空回りする

   ようやく豆がひけたのだ

 

   着手と過程と完成のある

   この朝の仕事

   きょうも重く始まった男のこころが

   コーヒー豆をがりがりとひくとき

   こなごなになり

   なにかが終る

   きょうが始まる

   容赦のない日常がどっとなだれこむ

   コーヒー豆はひけた

   そして男は

   「豆がひけた」と

   口に出してつぶやく

    

 では、ぼくたちも同じように、「豆がひけた」とつぶやいて、なにかが終って、なにかが始まるきょうに、コーヒーを、詩を、世界を語ろう。全体を失い、モノになってしまわないうちに。

 

 

3 起源のコーヒー

 

コーヒーが飲まれ始めた中世のアラビアという地域とその時代は、必ずしも平和な時代というわけではなかったかもしれない。しかしながら、起源の「コーヒー」なるものを人が飲むという行為のなかに、好戦的な傾きがあったとは考えることはできない。むしろ、カフェインなる成分が、軽やかな興奮とともにある種の「理性」をもたらすものであると、18世紀のフランスの啓蒙主義者たちなら楽天的に言い立てるかもしれない。

しかし、コーヒーの木が、アビシニア高原で自生していた潅木が紅海を渡り、イェメン山中の裏庭で栽培されはじめ、やがて牧歌的な主人たちの手から離れ、アラビア人によってインドへ、オランダ人によって東南アジアへ、フランス人によって遠くカリブ海および中米にもたらされたときに、アフリカの黒人奴隷たちや先住民たちの受難の歴史を持ち出すまでもなく、もはやコーヒーがもたらす幸福感にすでにして影がさしはじめたということは、多くのコーヒー史の研究家たちが叙述するとおりに違いない。

フランスの学際的な食文化研究家のジャック・バローの『食の文化史』によると、『フランス島、ブルボン島、喜望峰への旅』の著者、ベルナルダン・ド・サン=ピエールは、一七七三年にこう書き記したという。

「コーヒーと砂糖がヨーロッパの幸福に必須なものかどうか知らないが、この二つの植物が世界の両側で不幸を作り出したことを私はよく知っている。アメリカでは、それを植えるための土地を手に入れようとして、先住民の人口を減らしてしまった。アフリカではそれを栽培するための国民を手に入れようとして、人口を減らしてしまった」。

 

二十一世紀の世界を見渡したときにぼくたちが直面するさまざまな問題のなかで、先進国といわれる国と、そうではない国々の経済的な非対称のはじまりに、コーヒーという国際商品も確実にある地位を得て存在したことは疑いようもない事実としてある。しかし、現代的にシニカルな論者たちならば、別にコーヒーというものが地球上に存在しなくても、きっとコーヒーにかわる国際貿易商品のなにかが、アフリカから大量の奴隷たちをアメリカ大陸に移送しただろうし、中南米の先住民たちの文化を破壊し、苦しめただろうし、富の偏在を引き起こさせ、非対称な世界を生み出したに違いない、と。だからコーヒーだけを悪者にしたてあげることなんかないんだ、と主張するだろう。さらに、コーヒーというすぐれた換金商品が外貨を稼ぎ出し、コーヒー産地に富と幸運を運んでいる、そのことを過小評価すべきではない。たとえ、それがひとつの国家のなかで十幾つかのファミリーだけを幸福にしたとしても・・・・・・。

 

コーヒーという国際商品をいくら弁護するにせよ、「コーヒー」という植物がもたらす、「コーヒー」という飲み物、商品としての「コーヒー」には、光と影がはじめから内包されていたということだけは、まぎれもない事実として歴史的には存在し、コーヒーを語る者にはこのことをきちんと押さえておく義務のようなものがあると、ここでは言っておきたい。

マーク・ペンダーグラストの『コーヒーの歴史』をながめてみても、「コーヒー神話時代」のエチオピアや初期イェメンでのスーフィーたちのコーヒーの時代から、オスマン・トルコ帝国の大イスラーム圏形成とともに成長するコーヒーは、イスラーム圏を脱出して(西欧諸国によって、こっそり略取されたというべきか)、やがて北西ヨーロッパの国々が覇権を競ってその栽培地域をアジア、中南米に拡大するとともに、いっぽうで華やかなあるいは理性的なコーヒー消費文化を北西ヨーロッパに花開かせた。悲劇的な生産地の暗い抑圧的な歴史をその繁栄の下支えにしながら。こうした歴史を誠実に記述することなくしては、こんにちにおいてコーヒー史はもはや成立しないことを、マーク・ペンダーグラストの『コーヒーの歴史』も明確に示している。

 

もちろん、こうした「コーヒー自虐史観」がコーヒーの価値を貶めることにはならないのはいうまでもない。ペンダーグラスト自身も書いているとおり、コーヒー栽培をめぐっては、どんな非人道的な行為が集団的、歴史的に繰り返された史実があったにせよ、コーヒーという植物にはなんの罪もないことであるし、ましてや歴史をとおして洗練されていった栽培法や精製法、ローストにおける工夫、さらには抽出、飲用におけるさまざまな工夫といった連綿とつづけられた人々の営みに罪があるわけではない。

むしろ、やや偽悪的に語るならば、コーヒーのもつ光と影こそが、この特殊な近代の飲料を、文化的にも魅力のある、あえていえば悪魔的な陰影を醸し出す嗜好飲料にしているのは紛れもないことのようにぼくには思える。たとえば、それが音楽における、ジャズの持つ光と影に似ているという物言いと、すくなくとも表層的には合致するはずだ。

 

4 スーフィーたちのコーヒー

 

そもそも、コーヒーの原点というものを正確に目撃した者はいないにせよ、イスラームにおいてコーヒーがスーフィー(神秘主義者)たちの教団のような形態の秘密めいたサークルからやがて飛び出し、イスラーム圏においてしだいにメジャーな飲み物になり、ひとびとが集う「原−カフェ」を形成したという事態をもういちど明確にすることは、ひじょうに重要なことであるはずだ。

そもそもイスラームでは、カトリックのように教団を形成したり、世俗を離れた職業的宗教家というものはいないのが原則だが、神秘主義者とよばれるスーフィーたちは、ある種、カトリックにおける修行僧的な様相をもち、主導者のもと各地に教団組織を形成し、場合によっては、カトリック的な聖人までをも創出したりした。そういう意味では、主流的なイスラーム信者からみれば、異端のセクトともいえるのだろう。

特徴としては、現世を否定し、あらゆる欲望を否定し、ひたすら神=宇宙の真理を追究し、コーランに示す世界観を探求し、なかには、あろうことか唯一絶対の神(アッラー)と自己を同一化する者までもが出現することもあったようだ。

コーヒーを飲用しはじめた頃のイェメンのスーフィーたちが、具体的にはどんな教団のもとで修行に励んでいたかはわからないけれども、比較的、彼らは、世俗と往還する、穏健的なグループではなかっただろうか。少なくとも、墨のように黒く炒りこまれたコーヒー豆を飲料にし、ごく限られたグループ内で飲んでいたにしても、完全には閉ざされた空間ではなく、一般人への伝播の回路も開かれていたに違いない。

 

起源から現在にいたるまで、エチオピア、イェメンからはじめてアラビア半島を北に、あるいは紅海を北に向かい始めるコーヒー。

コーヒーには、交易初期の時代から、いずれにしても「移動」のイメージがつきまとう。

起源では、コーヒーの実は、果肉も果皮もまるごと、食品として、あるいは薬として、調理された。はじめから種子だけが特権的なものではなかったのはよく知られている。むしろ種子は排除され、廃棄されていたかもしれない。

やせた半透明の果肉や堅い果皮、あるいは種子は、煮込まれて、団子にされたり、あるいは、堅い皮(シルバースキン)が炒られて煎じられたり、あるいは葉っぱがまるでハーブやお茶のように煎じられたり、さらには、種子も殻ごとごく簡単に炒られ、煎じ詰めて、東方伝来の香料とブレンドされたりもしただろう。やがて、いつかどこかで、種子そのものが、その堅牢な銀皮も上手に除去され、精製され、芯まできれいに火がとおるように、かなり強く炒られ、われわれが知っているコーヒーの香りに包まれていくようになるのだろう。

イェメンの山中で、人の手によって意識的に栽培されはじめ、果肉や果皮は簡易な精製法によって除去され、種子はローストされ、臼のようなもので粉砕され、コーヒーとして時間をかけて煎じられるようになった。いずれにしても、このように「原-コーヒー」は、きっと歴史的な試行錯誤と多様性に満ちていたのだろう。「原-コーヒー」は、食品であり同時に様々な香料とも混交されたな混血の飲料でもあり、われわれが知っている「コーヒー」の前段階に位置していた。そして、そのいずれもが、コーヒーが持っているさまざまな成分、とくにカフェインという成分は溶出し、摂取した人々にある種の興奮作用を与えはじめたのである。

その最初期の効用として、イェメンのスーフィーたちに、欲望を押さえ込みかつ明瞭なる頭脳で神の真理に到達しようという宗教的な情熱を支えるための、ある種の精神的な高揚感をもたらしたのであろう。欲望の抑圧とは、なによりも睡眠欲であり、性欲とならんで重要な食欲を押さえ込むことが重要であった。もっとも、欲望をなえさせる効能は、中世アラビアのイスラーム圏に広く点在したスーフィーたちには重要なものであったろうが、北西ヨーロッパの近代市民社会に受け入れ始めた17世紀には、この欲望を否定する効能が、しばしば批判の対象にさらされることになる(ロンドン・コーヒー・ハウスを糾弾する婦人たちの根拠として、コーヒーを飲用した男性の性欲の著しい低下をあげた、というエピソードはよく伝わっている)。

 

スーフィーたちは、一般的には、6段階の修行のレベルをクリアーして、ズィクル(連唱)とファナー(消滅)の段階に入ると、イスラームの入門書にはある。

6つの修行レベルとは、懺悔(タウバ)、律法遵守(ワラア)、隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)、清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)、心との戦い(ムジャーハダ)、神への絶対的信頼(タワックル)。この6段階をクリアーしてはじめて、ズィクルの実践に入る。

ズィクルは、「アッラー」を称揚するいくつかのフレーズを、ある身体的な動きとともに、ひたすら連唱するもので、いずれ神との神秘的合一に到達する方法と考えられていた。そして、神との一体感を感じ始める、いわば忘我の境地に達すると、それはある種の恍惚状態、エクスタシーの世界となり、自己も他者も世界も、その境界を消失し、ファナー(消滅)の状態になる、という。

最終的には、ファナーの状態を体験したスーフィーたちは、修行を離れ、再び世俗に還っていく例も見られるそうだ。あるいは、世俗と往還しながら、修行をつづけるということもあった。

 

こうした宗教的な修行は、ひろく他の宗教にもあらわれるところであろう。そして、そこにある、極度の禁欲、自己抑圧の果てに広がる、忘我、恍惚の状態という、「苦-楽」が二重螺旋階段のように混在しているような印象さえ持ちたくなる。そして、その階梯のその先には神の世界があるのかもしれないが、そのことをここではこれ以上、論評できるものではないが、その階梯を登る旅に、コーヒーが置かれていたということに注意しよう。

コーヒーのもつ二面性。抑圧と高揚。禁欲とエクスタシー。これは、カフェインならカフェインのもつ化学的な効用として説明できるものだろうが、文化的に見れば、この黒い謎の液体が、彼らスーフィーたちによって飲用されはじめたのは、その後のコーヒー数百年に渡る光と影の錯綜する歴史を概観するときに、意味深であるに違いない。

 

孤独とともにありながら、一方で神(いわば世界そのもの)との合一という絶対的な宇宙的な栄光とともにあるような、コーヒー。食欲を殺すコーヒー。夢のような満たされた豪華な食事のあとのコーヒー。いずれにしても、コーヒーは、やがて、もっぱらその光を商業的なコピーに集約させながら、「神の国」から、その外へと拡散していくことになる。

 

5 移動と変容

 

さて、いずれのコーヒーであれ、商業的に拡散・移動することなく、初期の閉ざされた「場」で飲まれたに違いないコーヒーは、やがて種子を特権的に加工する飲用スタイルが確立される頃には、周辺地域に伝播していき、やがて限定された産地=イェメンの山中から産出される、「移動」を前提とする「貿易商品」となる。この「移動」の駆動力になったのは、イスラーム圏内の初期商業流通のシステム(アラビア商人たちによるキャラバン・サライなど)と、メッカに向かう巡礼を頂点となす宗教的な交流、移動システムであったことだろう。

コーヒーが成立したイスラーム文化圏は、宗教的にも経済的な段階においても、「移動」を前提にした文化圏だったのである。さらに、コーヒーがアラビア半島南端という、いわば古代文明の揺籃の地からみれば周縁のローカル飲料から、徐々に北上して、ついには、カイロやバグダッドやイスタンブールと、さらに古代ギリシアの近隣の地域、すなわち東地中海圏域にまで移動しえたときに、イスラーム圏の上流社会と大衆社会(もっとも、西欧的な近代市民社会とは別種のものであっただろう)双方におけるコーヒー普及のピークをなすことだろう。

中世アラビア交易経済圏のなかで、コーヒーという商品は移動し始め、伝播、普及しはじめる。「裏庭のコーヒー」が、遠隔地交易によって利潤をもたらす貿易商品となったのである。つまり、カイロ周辺の豪商たちの注目の国際貿易産品に変貌を遂げていったのである。

イスラーム圏域における最終的なコーヒーの旅は、イェメンの山中で飲まれていたスーフィーのコーヒーから出発して、遠くオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールのハーレムにまでたどりついて、幾人もの召使にかしずかれて、優雅に飲まれる神秘的な飲料へと変貌を遂げたわけである。ある種、清貧のイメージから、世俗的に富裕なる者のイメージが付与されたことになる。

満天の星空の下、夜を徹してつづけられるズィクル。そして、スーフィーとともに置かれた黒き液体。禁欲的で、反世俗的、没社交的な飲料。

この風景から出発して、イスタンブールの絢爛豪華な「コーヒーの家」から発信されたコーヒーは、ヴェネツィアをはじめとするイタリア諸都市、フランス、イギリス、そしてオランダやハプスブルグ王朝下のウィーンなどに伝播される。そのときのコーヒー像は、おそらくオスマン・トルコ帝国の国力に見合うだけの、豊かで神秘的なコーヒーのイメージが有力だったことだろう。

この特別な飲料としてのコーヒーが、イスラーム圏を飛び出して、普及、伝播するということがすなわち、産地である「裏庭」からの逸脱の始まりでもあり、起源におけるコーヒーの出楽園をも意味していた(なぜならば、初期コーヒーには、奴隷制も先住民抑圧も相場操作も貿易調整も為替損益もなかったのだから)。

 

コーヒーは、北西ヨーロッパ諸国の植民地戦略によって中南米、東南アジア、南インド、そしてアフリカに拡散していく。このことによって、最初の産地であるという「モカ」というブランドの品質に関する神話が生まれたものの、収穫量においては、アラビア半島南端のイェメンは世界市場のなかでは徐々に存在感を失っていく。「モカ」港というコーヒーの積み出し港は、コーヒーの代名詞として語彙的に今日至るまで、北西ヨーロッパに長く定着することになるものの、世界唯一の産地としての重要性は当然のことながら徐々に失われていく。

オスマン・トルコ帝国の文化的、政治的崩壊が決定的になった二十世紀になってから、中近東のイスラーム圏においては、コーヒーは大方、輸入品となり大衆には手の届かない高価な舶来品になってしまう。コーヒーがアラビア起源の飲料であることに由来する「トルコ・コーヒー」の特権的な地位は、西欧列強に完全に強奪されてしまうのである。経済的にも、文化的にも(これは、コーヒーに限らず、フランス料理に影響を与えた料理文化、建築、服飾、室内デザイン、調度品などあらゆる生活文化が含まれることだろう)。せいぜいが、広告用の商品コピーのなかで、通俗的なアラビアのイメージが再生産されるだけになっていった。

 

 遠隔地貿易が、そもそも価値観の差異を搾取することで成立するのであるならば、初期資本主義的な商品のチャンピオンにあっという間になりおおせたコーヒーが、つねに「移動」によってもたらされるのは必須のことである(もちろん、現代のブラジルのように巨大産地であり、コーヒー消費国であるという事例も近年はでてきてはいるが)。

ひとは、どんな作物でも、裏庭でできるようなものに高値をつけたり、巧妙な商品イメージを付与したりして、そこから莫大な利潤をあげることなんかできない。空間と時間の差異を生まないものは利潤を生むことはできない。

また、コーヒー商品のイメージが安易なレベルでいえば、砂漠を行くキャラバン・サライの幕舎のなかのコーヒーや北米における西部フロンティア時代の幌馬車隊に結びつくのも、コーヒーの「移動」のイメージに根ざして故なきことではない。

 

コーヒーは石油につぐ合法的な国際取引商品である。

現在、コーヒーの主要産出国は中南米、アフリカ、東南アジアであり、「産地」としての起源のイェメンを中心とした、中近東の影は薄い。それにかわって登場する「石油」は、これまたサウジアラビアをはじめとしてイラク、クエートといった中近東のエリアが主要な産出国となっていく。

 石油とコーヒー。もちろん、なんのつながりもないものの、いずれも近代や現代の「黒きのエネルギー」であったと言えないだろうか。近代を、現代を作り上げた、このふたつの象徴的な黒き液体。

ところで、このふたつの黒き液体は、果たして、「中近東」とその周辺のイスラーム圏に、近現代という時代の遠近法のなかで、真の意味でのアラビアの幸福をもたらしたのだろうか。

セム系一神教に連綿と受け継がれてきた、「蜜と乳の流れる」天国的な幸福をもたらしてくれたのだろうか。富の偏在や独裁者の台頭、他国(西欧列強といわれるおなじみのメンバー)の軍事的介入に、とくにオスマン朝崩壊後、一貫してさらされてきたのではなかったか。原油は、なんとも、皮肉な富の泉、いわば、逆説的な「ハガルの荒野のザムザムの井戸」ではなかったのか。

旧約聖書に記述のあるハガルが子供を抱いてさまよう荒野で、大天使ガブリエル(アラビア語でいうところのジブリール)が指し示したという井戸であるザムザム。それは、のちにアラビア人にとってのコーヒーを暗示していたのだろうか。あるいは、石油なのか。

セム系一神教の複雑な数千年にわたる歴史の気の遠くなるような物語が、皮肉にも、この二十一世紀にいたるまで影を落としているのだろうか。

 

6 ふたたび、戦争

 

1998年12月刊の「コーヒー文化研究」第5号に<「詩とコーヒー」試論への断章>を寄稿してからすでに丸4年がたった。そして、2003年12月のきょう、世紀はすでに変わっている。

ふたつの世紀をはさんで世界はどうなったのか。98年末からきょうまでに世界で起こったことを振り返れば、あらたな困難な局面に世界がたたされているのが見えるような気がする。

たとえば、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーのような、はるか数十年前からアメリカ合衆国の国際社会に対する数々の「テロ行為」を非難し続けてきた筋金入りの平和主義者ならば、たとえば2001年9月11日のアメリカ合衆国を襲った事態をこの半世紀ほどのあいだに合衆国がなしてきた「悪行」の当然の帰結として受け止めたのかもしれない。彼が言いたかったのは、あのとき、ニューヨークやペンタゴンを襲った事態に誰もが驚愕したのは、それが人類史上においての大悲劇だったからではなく、いまや世界の中心と信じられたアメリカ合衆国の軍事的中枢や経済的シンボルが、史上初めて攻撃されたからだ、と。あの「自爆テロ」がアメリカ独立戦争以来、アメリカ本土が攻撃を受けた初めての出来事だったからだ、と(太平洋戦争におけるハワイ奇襲攻撃は、いわばアメリカ合衆国の植民地の軍事基地攻撃に過ぎなかった、という見立てなのだが)。

ベトナムや中米、コソボなどに対する、アメリカ合衆国(およびその指揮下にあったNATO軍)による直接的、間接的軍事行動の数々。国際司法裁判所から「他国への侵略行為」と有罪判決を宣告されたこともある(1981年のニカラグア事件)、いわば世界的な「テロ国家」であるアメリカ合衆国の、この数十年のなしてきたことの当然の帰結としての9.11があるというのが、チョムスキーのラディカルな見立てであった。

 

その2001年9月11日。その日、ぼくは、99年3月から仕事で赴任し、暮らしていた、フランスのリヨン近郊の田舎町の料理学校の卒業式に、学校側スタッフとして参加していた。式に参加していた来賓の幾人かが、見たばかりの国際ニュースについて噂していた。ワールド・トレード・センターって、いったいどのくらいの人数の人間が働いているんだ? 千人か、数千人か、いや一万人?

やがて、フランス人同士のおしゃべりが明確な輪郭を持ち始め、やっとぼくを含めた日本人スタッフもその場を離れ、テレビのスイッチをNHKの衛星国際放送にあわせた。その光景はあまりに現実離れしていて、とっさの感想が持てないほどだった。後に世界中に繰りかえし放映された、二つの高層ビルが民間の旅客機の突入によって崩壊していく映像(後に知ったことだ、この映像は、マンハッタンの消防士のドキュメンタリーを撮っていたフランス人の兄弟が偶然にも撮影したものだった)は、やはり時間がたつとともに明確な衝撃として、式に参加したフランス人、そしてぼくたち日本人に波及したのであった。

 

 二十世紀の終わりと二十一世紀のはじまりの三年間をフランスのリヨン近郊のレイリュー村(アン県の西端。ソーヌ川沿いのトレブーという、フランスで最初に辞書印刷が行なわれたことで知られた町の、さらに隣の知られざる小さな村!)というところで、ぼくは過ごした。

フランス滞在三度目の秋、アメリカ合衆国での9月11日をフランスのメディアやNHKの国際放送をとおして目撃するという体験をもった。だれにとっても信じられない光景がテレビのブラウン管の彼方から届けられた。その信じがたい映像とともにフランス人のレポーターや解説者らしき人物のまくしたてるフランス語の洪水のなかから、ひとつの日本語らしきものが響いていた。

 「カミカーズ・イスラミック」と、それは聞こえた。「カミカーズ」という発音は、どうやら、「カミカゼ kamikaze」という言葉らしい。その日本語らしき痕跡のある言葉は、フランスのメディアのなかで、数週間、繰り返された。

耳では「カミカーズ」と聞こえたフランス語は、すなわち「神風」のことであり、それは第二次世界大戦あるいは正確には太平洋戦争というべきなのか、その戦争の末期において片道の燃料しか積まずに敵艦に体当たりしたぼくたちの国のわずか五十数年前の若者たちの、捨て身の自爆攻撃「神風特攻隊」に由来することばであるということに気づくのに、しばし時間がかかったのを覚えている。

 やがて、フランス人が使うその「カミカーズ・イスラミック」ということばに、なんとも言えない生理的な違和感を覚えたものである。ためしに手元の仏和辞典をひくと、「kamikaze」ということばは一般名詞(あるいは形容詞)として、神風、神風特攻隊員(機)、そして、向こう見ずな命知らずの人、自殺同様の、という意味にまですでにして拡大され使用されているもののようだ。さらには、英和辞典までひいても、同じように「kamikaze」が記載されていた事実に、そのとき困惑というものを感じざるを得なかった。

 そのようにして、日本の言葉が、まるでトーフやタタミ、サムライ、ゲイシャなどとともにひそかに海外デビューを果たしていたことに、ある種の違和感と、あえていえば嫌悪感をいだいた。

 その違和感のようなモノをさっそくぼくは、まったくもってへたくそなフランス語で、周辺にいるフランス人たちに表明してみた。つまり、イスラーム原理主義者のなかのごく一部のテロリストたちが、民間航空機をハイジャックして民間人の施設であるワールド・トレード・センタービルに(もちろん、軍事施設であるペンタゴンも標的だったのだが)、しかも旅客機の一般の乗員乗客を道連れにして自爆テロを仕掛けたということと、奇襲で始まった戦争ではあったが、戦争もすでに末期に、とりあえずは軍隊と軍隊との戦闘状況の中で、捨て身のそれこそ狂気の沙汰としかいいようのない片道の燃料だけを積んで敵艦隊にパイロットもろとも突撃するという「軍事的作戦」。

テロリストたちの行為と、戦時下の「神風特攻隊」の若者たちの行為が、同じ「カミカゼ」ということばに収斂されるのはいかにも容認しがたいと、ほんとうに拙いフランス語で抗弁を試みたのである。

 さらになけなしの教養をかき集め、そもそも「神風」というのは元寇という他国からの侵略のときに吹いたという嵐にその起源がある、由緒正しい言葉なのだとわめきながらも、でも一方で、この「愚劣な」行為のふかいふかい根っこのところでの共通性のようなもの、共通のある痛ましさがあるということを、どこかで認めざるを得なかったというのも正直な事実としてあった。

 イスラームを信奉する膨大な人々のなかの、ある部分であるイスラーム原理主義者の、さらにごく一部の過激な集団のある種の狂信的な行為は、彼らが敵対するアメリカ合衆国の側に、いろいろな歴史や背景や思惑や陰謀があるにせよ、結局、教育され、指導され、そして死んで行くのは若者たちであり、その若者たちを死地に追いやる判断を下し、作戦を指揮するのは、仮に弱小の集団であっても、そのなかでは権力を持つ者に違いなく、指示を出す「権力者」たちは、多くの場合、そうした「自殺的作戦」で死ぬことはなく、次なる展開、作戦を練ることのできる場所に安住、避難できたという点では、神風とカミカーズ・イスラミックとの間にはさほどの乖離はないのかもしれない、と暗澹たる気持ちで思わざるを得なかった。

 アフガニスタンにおけるタリバーン政権やイラクのフセイン政権は打倒されたけれども、要するにオサマ・ビン・ラディンもフセイン大統領も、いまのところ発見にいたってはいない。

たしかに、西欧的な民主主義の感覚からいって、アルカイーダもオサマ・ビン・ラディンも、独裁者フセインだってきっとロクなもんじゃないと、軽く言い流すこともできるものの、イスラーム原理主義者(過激な一派かどうかは知らないが)のアジトもあったという、リヨン近郊に住んでいた当時はなんとも割り切れない、理屈では解決不能なこの世界の不条理の断崖にぼくたちは立たされているのだと、激しく思ったことをいまでも覚えている。なぜならば、ぼくが当時、外出の時には常に携帯していた滞在許可証つきの赤い表紙のパスポートの国は、その憲法第一条に象徴天皇制を保持している国であったからだ。そういう文脈では、日本にとっても、生きながらえた末裔のぼくたちは、「カミカゼ」の呪縛からまだ自由ではないはずだ。と、あまり論理的とは言えないが、イスラームと、極東の国とが抱えた「神」とともにあった戦争の対比に、思いが流れてしまったことを、記憶している。唯一絶対的な神と、木や石や山にさえも宿り拡散する遍在の神(もっとも、「御真影」に代表されるように、あの十五年戦争のときの日本は、例外的にいささか一神教的な様相すら帯びていたのかもしれないが)との非対称とある種の対称性。

 

結局のところ、一元的な価値基準で世界を見てはいけない、かりにそういう一面的な世界観を頼りにしても、なんの解決にもならないのだろう、と漠然と考えるしかなかった。だから、いまひとりの個人に、共同体に、国家に、国連に、なにができて、なにができないかということも不明のまま、それでもこのことをじっくり考えつづけなければ、北朝鮮の拉致問題も、イラクの問題も、パレスチナ-イスラエル問題も、アメリカ合衆国の一国主義的、独善的振る舞いも、あるいはこの日本が抱え込んでいる耳をふさぎたくなるような陰々滅々とした問題や事件を、そしてこの日々をやり過ごすことさえかなわない、今日や明日があるのではないかと、思えてきたのである。

 

 二十世紀は革命と戦争の世紀だったのだろうか。

いや、もちろん二十世紀に限らず人類の歴史は戦争と動乱と無縁ではなかった。きっと善きこともなしてきただろう人類が、おおかたにおいて、悪しきことを、それも言い尽くせぬくらいの悪行の数々を、繰り返し繰り返し、連綿と絶えることなく、今日まで引き続き行い、さらには、善きことと悪しきことがオセロゲームのように目まぐるしく歴史的評価というもので裏返り、ついには善悪の単純な二元論自体がすっかり無効になりつつあるという現在が、いまここにあるのではないか。

だから、自らのなした「悪事」は「悪事」として謙虚に自覚したうえで、目の前の他者や他国を非難、批判、糾弾するという手順を踏まないことには、みんながアメリカ合衆国の現大統領のようなシンプルな、まるでマンガのような「勧善懲悪主義」を偽装していたのでは、事態はますます複雑に迷走し、痛ましく、意味のない「死」にさらされる者が、さらにこの地上に増え続けるのではないだろうか。

 二十一世紀になって三回目の秋もとうに過ぎ、冬が始まるいまのいま、この極東の国でさえも、戦争は前の世紀とかわらず身近にあるものに違いないと、感じられる。悲しいことながら。

 

7 戦争、そして映画

 

 そして、またもや、ブッシュというファミリーネームを持つ大統領による戦争がはじまった。

 世界は無力感に襲われながらも、かつてない反戦運動を世界各地の都市に巻き起こしながら開戦前後の数週間を過ごしてきた。そんななか、アメリカ合衆国という国で、2003年、75回目を迎えるアカデミー賞という名の、映画産業界最大のイベントが開催された。

その2003年のアカデミー賞の授賞式は、ある種、痛快なニュースとして世界に配信されたにちがいない。そのニュースとは、アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされていたマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」がこの部門を制覇したことであり、そしてなによりもその受賞スピーチでの監督ムーアによる、おそらく戦時下、公的な場でなされた史上最大の現役大統領に対する罵倒、そのものであった。

 3月24日付けの朝日新聞夕刊の記事によると、彼は「我々はノンフィクションが好きだ。なのに今は、イカサマ選挙で決まったイカサマの大統領をいただいて、作りものの世界に生きている」と、ムーア自身の著作『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房)でおなじみの、ブッシュ当選の大統領選挙での開票作業およびその後の裁判での不透明性を指摘する自説をまずぶちかまし、さらに「イカサマの理由によって戦争が始まった。イカサマの情報が流れている」「我々はこの戦争に反対だ。ブッシュよ、恥を知れ。お前の持ち時間は終わった」と絶叫した。

場内は拍手とブーイングが交錯し、ぼくを含め、おそらくそれをテレビで目撃していた世界中の多くのひとびとに歴史的な感銘を与えたに違いない。戦時下のアメリカ合衆国という国は、見事なまでのメディア統制により80%以上もの国民がこの「イカサマ戦争」を支持しているなかでさえも、映画産業の最大規模の祭典において、ムーアのような映画人が存在し、「ボウリング・フォー・コロンバイン」が評価を受け、あんなスピーチができるという事実こそが、アメリカ合衆国という国において、いまだ「自由」というものが細々とながら生存しているのだと思わせてくれた一大快挙であろう。

もちろんだからといって、イカサマの大統領および新保守派と呼ばれる閣僚の面々が戦争を終結に向かわせることなんかありえないだろうが、ムーアのようなアメリカ人の存在が、アメリカ合衆国の戦後復興に向けてのかすかな希望のひかりのようなものを感じさせることだろう。いずれにしてもこのアメリカ合衆国という国が、はやく本当の意味において、「自由主義陣営」にもどってくれることを世界中の人々が待ちわびているはずだ。

 

 そして、「イラク戦争」は一度、終わった。終ったけれども、結局、この冬、ふたたび戦闘状態にもどりつつあるようだ。アフガニスタン情勢も含め、予断を許さない日々がつづいている。

いずれにしても、この新しい世紀にはいって、いまだに戦争や紛争や疫病や不況や凶悪犯罪、事件は絶えることがなく、それでもこの惑星のぼくたちはくりかえしくじけそうになりながら絶望の断崖のその向こう側を幻視したいともがきながら生きている、そんなきょうがここにあるのではないだろうか。

 映画も詩も、日曜テレビ討論会も無力なことだろう。「言葉」は、所詮、そこいらを吹き抜ける風のようなものに違いない。けれども、おなじように、「ボーリング・フォー・コロンバイン」でも描かれていた、世界最大の兵器製造企業ロッキード社が造る、最先端の弾道ミサイルもまたある意味では無力であるにちがいない。人を殺し、環境を破壊することはできても、結局のところ、かれらにも、かれらが造りあげるまさに「大量破壊兵器」でさえ、世界を変える絶対的な力なんて持ちようがない。せいぜいが、何世代にも渡る復讐の記憶をこの惑星に植え付けるくらいの力しか持てないことだろう。

それはあらゆる意味において、むなしいことには違いない。

 「正義」と「民主主義」のミサイルが、ひと殺しをしに飛んでいくこの惑星で、経済大国と自称するひとにぎりの国の首脳たちが寄り合い、サミットを開く湖のほとりの死んだような町。そんな町のミネラル・ウォーターをにぎやかに飲んでいるこの極東の町で、仕事が終わって途方にくれたようにどこへ行くあてもないぼくたちは、今夜も、暗闇のなかの銀幕に吸い込まれていくしかないだろう。

そして、映画には、光と闇がやどり、世界をその映像で暴くときに、傍らにはやはり一杯のコーヒーが、やけに苦いコーヒーがつきもののことだろう。

 

 おそらく十九世紀末のぎりぎりのところから二十世紀そして今世紀へと伝承されたこの映画というメディアの真価が、いまこそ問われている時代はないのではないか。このメディアはもちろん二十世紀を代表するメディアであり、だからこそ、映画というメディアは、「戦争」とつねに随伴してきたといういたましい事実が、いまなおぼくたちの前にある。

戦争の無益さ、無惨さ、愚かしさを映画は詩とともにあるいはほかのおおくの表現メディアとともに世界に向けて切々と訴えてきたに違いない。

 映画は詩と同じように、「国家戦争」のプロパガンダの片棒をかついだ苦い経験をもちながら、いやそれゆえに、戦争や復讐や差別や暴力や無理解の絶対的な愚かしさをも、いっぽうで告発し、表現しつづけもする。もちろんそれでも、現実ってやつは表面的には風に柳の枝をなびかせながら、おかまいなしだ。あの国のあの草原や砂漠にはいまごろどんな風が吹いているのか? 町々の、村々の、傷ついた子供たちには、どんな星空がその光を届けているのだろうか。

 

8 断章、最後のコーヒー

 

 人生は前にしか進まない。そうだろうかほんとうに。フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの「過去のない男」を観ながらぼくは考えた。

 記憶喪失の男の人生に対する信じられないほどの誠実さが、まるでお伽の国の物語のようにせつせつと胸に迫ってくる。その独特の映像スタイル。そして演出。さらにいろんな国の音楽を自在にあやつる信じがたいほどのセンスのよさ。

 記憶はときとしてその人格のすべてでもあることだろう。それは歴史がそうだという意味において譲れないものとしてあるに違いない。でも、ここまで世界が怨念、因縁、支配、被支配、貧困、そして圧倒的な非対称に覆われたときに、まるで世界が歴史という記憶の喪失者になったら、どうなのだろうか、と空想したくなる。国家的、民族的、宗教的、共同記憶喪失になって、過去のことにとらわれず、明日からのことだけを、まずはいまのいまだけを前向きにとらえて生きていけたら、と。

 映画の男の場合、記憶喪失がかれの人生の線路のポイントを画期的に切り替えることになる。そこかしこに悲しみがないわけではないが、「前にしか進まない人生」はまったく違う文脈の幸せの鉱脈を掘り当てる。

 じゃあ、現実の世界はどうだ。

 いくつもの聖典と啓示と贖罪を忘却し、戦争を虐殺を略奪を被害を加害を忘却し、占領を、報復のすべてを忘却できたら、集団的記憶喪失ができたら。それこそ男のようにヘルシンキの夜中の公園の暴漢にバットで頭を殴られたように。そうなったら、たとえば、エビアンという年寄り臭い水の町に「サミット」という名の世界の村の寄り合いに集っていた、自称「大国」の首脳連中はどんな前向きな人生を、人類に提案できるのだろうか。 

 カウリスマキの描く記憶喪失の男はフィンランドの列車の食堂車のなかで、なぜか日本酒のお銚子一本と鮨を器用に箸でつまみながら、日本のユニークなロック・バンドであるクレイジーケンバンドの「ハワイの夜」が流れるというシュールなシーンで、記憶喪失以前の「過去」から記憶喪失後の「現在」に生還する。まさに人生は前にしか進まない列車のようだ(それにしても、ヘルシンキ、日本酒、鮨、そしてハワイの夜、という奇抜な演出。不思議な、カウリスマキ特有の世界である)。

 

 たしかに、現実はもっと複雑だろう。それにしても、さしたる根拠のない「記憶」や「歴史」に世界はがんじがらめになっているのではないだろうか。これでもか、これでもかと、ひとの不幸を描きつづけたカウリスマキが、この映画で用意した「幸福」は経済大国とも栄達や名誉や勝利や支配とも無縁の世界観のささやかだが、とてつもなく大きな「幸福」である。

 

 さて、ここまで来て、「ひとりソクラテスのカフェ」での議論は閉じることなく、ひとまず、お開きにしよう。世界で一番、一人当たりのコーヒー消費量が多いフィンランドで映画を撮り続けているカウリスマキ。これ以上の不幸はないというような暗い顔の中年の男や女がいっぱい出てくる彼の世界に、寒空の下、凍える手を温めてくれるコーヒーはよく似合う(もっとも、映画では、ひと気のないうらびれたカフェで、ぬるいビールをまずそうに飲むシーンの方が、圧倒的に多いでけれども)。

 

 さて、最後の最後に、どさくさにまぎれるようにして、ぼくは、自分自身の詩を厚顔にもテーブルの上に置いて、あちこちに迷走し、散乱したこの「ひとりソクラテスのカフェ」を、ひとまずは雲散霧消させてしまおう。

この詩には、直接的にコーヒーは出てこないが、芭蕉が、三百数十年生きながらえて俳諧の旅をするという荒唐無稽な設定のもと、俳諧巡礼の旅のなかに、コーヒーの光と影を潜ませたつもりである。おもえば、この国の俳諧、連歌の伝統は、本来は誰のものでもなかった太古の「歌」が、中世の王権や国家権力の側に回収され、洗練していった「和歌」の伝統を、ふたたび、民間人の、民衆のなかに再回収、再構築した草の根の文芸にあったはずだ。

それはまるで、強引な飛躍だけれども、エチオピアやイェメンの山中のコーヒーの文化を、近代の西欧植民地主義が生み出した怪物の「コーヒー」からふたたび奪取しなおそうとする、真の意味での搾取を憎む世界中のコーヒー愛好家たちの運動に通底する精神のうねりがないだろうか。

 そして、日本各地を旅した芭蕉の俳諧、連歌の旅は、移動するコーヒー、カフェの本来的な意味における姿に重なるのではないだろうか。

   

芭蕉遊行 フィンランド篇

 

        たとえ記憶が失われても

         人生は

まえにしか進まない

        「過去のない男」

        しあわせはここにあるのかないのか?

          

 

空港からの風景 それはヘルシンキ

芭蕉とその取り巻きの旅は北欧にまで及んだ

旅をはじめてかれこれ三百数十年

荒地の詩人も拒否したこの新世紀

この世紀までよもや生きさらばえているとはおもいもしなかった

われもまた百代の過客にして

旅人こそが行きかう年月

 

世界各地の俳諧巡礼の旅

片雲の風ふく砂漠や大海原や草原をこえ

幾たびかの苛烈な戦役すら体験しながら

老いさらばえた見者の哀しみ 淋しさ

もう定型に結べなくなったこの想い

ヘルシンキの安宿の画像の乱れたテレヴィジョンの砂嵐から流れるのは

インチキな大統領の像がおもちゃ遊びのように

ひきずり倒される砂嵐の国の戦役の一部始終

 

行く春や

ことばはそこで永遠にブレイク

切れ字にもやどるのだろうか 砂漠の唯一神の井戸水のごとき慈悲

芭蕉はひとり実感していた もう世界中で泪は枯れ

ことばは定型を見捨てたと

 

そこかしこに無惨なのは

かつて独裁者と名指しされた男の巨像の残骸

これが二十一世紀の巨大帝国の最初の戦利品とはあまりに愚かなことだ

 

長生きなんかするもんじゃないと

芭蕉は深くため息をつきながら

ヘルシンキの港の旧市場内のノリマキという

実在のしゃれた鮨屋で

好物の小鰭に似たこぶりなひかりものの鮨を

ひょいと口に入れる

江戸でもこんな早鮨はまだ食したことがない

 

ノリマキ

そうかカウリスマキと韻をふむなと

芭蕉はめずらしくひとり笑いをしては

また ひょいと小鰭のような鮨を

口にほうりこむ

 

グローバリゼーションと呟いて

くちびる淋しい

オーロラの夜  (取り巻きのひとりの駄句)

 

だれもひとの句作なんか気にとめない

ノリマキの夜

 

日本の戦後ムード歌謡のように

青い灯 赤い灯 エコー強烈な

歌声にのせて切々と

訴えかけるは女心

もう人生の悲哀とか

孤独とかをだれも癒すことなんかできない

波止場の夜霧よ

ヘルシンキの夜霧

夜霧よ

今夜も

さようなら

 

うたうな曽良よ 郷愁を響かせて

いまや若者たちはうたわないうたを世界中の路上で

ラップにつつんではき続けておるのじゃ

人生は前にしか進めない

なにがあっても 結局のところ前があっても後ろがない

定型に結べぬ詩もまたあることを

いまは胸にきざめ

(この詩篇は、フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの新作「過去のない男」に触発されて書き起こした。)

 

 

 さて、語るべきなにものも、もはやないけれども、今後、コーヒーを考え、カフェの可能性を考えるとき、それぞれの趣味や生活や思想や心情といった等身大のものから、直接には触れることのできない、他者や他国や、あるいは過去や未来の「異文化」、未知なるものへの接近、相互理解のためのささやかな杖になれば、という思いを強くする。

そのために、カフェでのおしゃべりに時間や、時間にやりくりをつけて駆けつける映画館の銀幕、そして現代の詩の書き手たちの言葉が要請されているのではないだろうか。

 世界のことを考え、戦争や文学を語ることは、決して高踏的な趣味ではない。もっと切実な問題として、いまのぼくたちに課されたものだと思う。

さて、いまこのながながしいおしゃべりの最後に、フランス滞在中にぼくが通っていたフランス語の教室の老教授、ピック先生が教えてくれたフレーズが、しきりと思い出される。

 

「ローカルに行動し、グローバルに思考すること。(Agir local,penser global.)」

 

この標語は、反グローバリゼーションのための運動から生まれたものらしい(「ル・モンド・ディプロマティーク」という月刊誌のイニシャオ・ラモネの論説をきっかけにして、フランスで生まれた国際的な金融取引への課税「トービン税」を求める、ATTACという世界的な規模の新団体の標語のようなものであるらしい)

このフレーズを、ぼくは、これからのぼくたちのコーヒー文化を考えるときの、よりどころ、いわば「カフェ・デ・ファール(灯台のカフェ)」にして生きていきたい。

 

 

<参考文献>

「ノーム・チョムスキー」ノーム・チョムスキー/鶴見俊輔・監修(リトル・モア)

「コーヒーとコーヒーハウス/中世中東における社交飲料の起源」R.S.ハトックス(同文舘)

「コーヒーが廻り 世界史が廻る」臼井隆一郎(中公新書)

「現代アラブの社会思想」池内恵(講談社現代新書)

「イスラームとは何か」小杉泰(講談社現代新書)

「イスラムの神秘主義」R.A.ニコルソン(平凡社)

「イスラム教の本」少年社・福士斉 編(学習研究社)

「コーヒーの歴史」M.ペンダーグラスト(河出書房新社)

「楽園・味覚・理性」W.シヴェルブシュ(法政大学出版局)

「チョコレートからヘロインまで」A.ワイル+W.ローセン(第三書館)

「『詩とコーヒー』試論への断章」小山伸二(日本コーヒー文化学会「コーヒー文化研究」no.5掲載)

「ソクラテスのカフェ」マルク・ソーテ(紀伊國屋書店)

「食の文化史」ジャック・バロー(筑摩書房)